日本人にもっとも知られているブラジル人の一人がアイルトン・セナでしょう。
1984年~1994年の約10年間に渡り自動車レースの最高峰であるフォーミュラワンで活躍し、1988年、1990年、1991年と3度のワールドチャンピオンをマクラーレンホンダ在籍中に獲得した、まさにモータースポーツ界の英雄でした。
アイルトン・セナの存在がテレビのフォーミュラワン中継を通して認識され始めたこの時期、いわゆるバブル経済に沸いていた日本はこの速さを追及したとてつもなく速く、そして華やかなヨーロッパ文化であるフォーミュラワンに魅了されて行きます。
それまでの日本のモータースポーツは一部の熱狂的なファンのみに支えられていましたが、このアイルトン・セナのスマートで、しかもどこか寂しげな雰囲気とマシンを操る時の異次元のドライビングテクニックとその速さに子供達や女性達までもが夢中になりました。
日本の鈴鹿サーキット(三重県)で開催されるグランプリにはプラチナチケットを携えた20万人を超える観客が集まり、アイルトン・セナの最大のライバルといわれたフランス人のアラン・プロストやイギリス人のナイジェル・マンセルらと、予選でのポールポジション争いや決勝レースでの表彰台の頂点を争うグランプリレースを夢中になって観戦しました。
もちろんチケットを手にいれる事の出来なかった人々や中継を心待ちにしていたレースファンがテレビの前に釘づけになりました。
1994年のイタリア・ボローニャで行われたサンマリノGPで事故によりこの世を去った時にはブラジル全体が喪に服しました。
イタリアから棺がサンパウロに帰ってきたニュースは映像で世界中に配信され、葬送の列を見送る100万人を超える人々の悲しむ様子が映し出されました。
アイルトン・セナの葬儀は国葬となり、命日に当たる5月1日をブラジル政府は「交通安全の日」と定めました。
アイルトン・セナが眠る「モルンビの丘」はサンパウロ市内の高級住宅地の一画にひっそりと存在しており、クリスチャンでもあった彼の墓碑には「NADA PODE ME SEPARAR DO AMOR DE DEUS(神の愛は永久にわが身に降り注ぐ)」と刻まれています。
サンパウロ空港よりモルンビの丘(Cemiterio do Morumbi)まで渋滞が無ければレンタカーは約1時間で到着出来ます。
かならず事前にグーグルマップで下調べをし当日はカーナビを使ってドライブして下さい。
モルンビの丘には多数の墓標が有り、自分で見つけ出すのは非常に時間が掛かります。墓守の人に場所を教えてもらうと良いでしょう。
Ladeira dos Guararapesまたは、Ladeira do Cosme Velhoを、またはRua Almirante Alesandrinoを走ります。
レンタカードライブはとっても開放的なものですが、リオの市内はとっても複雑です。なるべくGPSカーナビを利用しましょう。
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